ダリス便り その後
――― 幸せな食卓 ―――
セリアン家の一日



 クライン王都の大通りから、少し外れたあたりに、こぢんまりとした家がある。
 落ち着いた煉瓦造りの家は、小さな花壇に囲まれて、とても暖かそうに見えた。
 ただ一つ、この家が隣近所と違っていたのは、南向きの家の裏手、北側の離れだろう。
 離れ、と言うには少々奇妙な一階建てのその建物は、壁の上の方に、明かり採り用の小窓が数窓空けられている他は、窓らしきものはない。妙に分厚い煉瓦の壁を巡らせて、通りから直接誘導する小道が続く入り口には、木で出来た小さな看板が架けてある。
―――Serian・Laboratory―――
 壁の厚さや、窓の無さ、加えて内部は半地下型に掘り下げてあり、ちょっとしたホールのようになっていた。
 大きく空間を開けた中央部の床には、なにやら魔方陣が描かれ、壁際に設えられた棚には、ぎっしりと研究機材が並んでいたり、はたまた怪しげな物が詰め込まれた瓶詰めであったり、書籍や巻物、研究をまとめた書類や、どう使うのか判らない不可思議な機械仕掛けまであったりと、整然としているのやら怪しいやら。
 そう、典型的な魔導士の研究室である。
 一年程前に開かれたここの主は、国営の魔法研究院でも重要な位置を占める秀才との噂で、まだ若いながら腕の良さと仕事の速さで、なかなか評判は良いのだが、そのぶっきらぼうな性格と物言い、挙句に王宮の依頼でも気に入らなければ受けないという気難しさで、ちょっとした名物になりつつあった。
 ついでに、入居した当初は夫婦者であった筈なのだが、間も無く細君の姿が見えなくなり、はや一年、てっきりあの性格の所為で愛想を尽かせて出ていったのだろう、というのが近所の噂。
 だがしかし、噂が必ずしも真相を伝えているのではないって事が、昨日大荷物を抱えて、嬉しそうにその家に入っていった女性によって証明された。
 噂好きのおかみさんが言うことには、その女性は出ていった筈の細君で、どうやら仕事で王都を離れていたらしい。
 なにしろその細君は、女だてらに、騎士団の若手でも生え抜きの腕利きで、将来を嘱望されているのだそうな。
 彼の見た目に密かに思いを寄せていた娘達が、帰還した細君の美貌に、諦めのため息をついていたのは、まあお約束として、細君を迎え入れた時の彼の笑顔と、珍しく賑やかに華やいだ笑い声などが聞こえた宵の口の事など、今日はさぞかしご機嫌も宜しかろうと、井戸端会議で偏屈魔導士の噂が花咲いていた時、当の魔導士は、研究室の奥にある書斎で、ここ最近に無いほどの仏頂面で本をめくっていた。


 分厚い魔道書を開き、目を走らせているものの、いっかな文字は頭に入らず、同じ個所を繰り返して更に苛立つ、終いには聊か乱暴に本を閉じてしまった。
「キール」
 背後から、柔らかなアルトの声が寄越され、彼は小さくため息をついてから、つとめて穏やかに返事をした。
「なんだ?」
 それでもこの程度なのは、まあしょうがない。
「お茶が入りました、如何ですか?」
 夫の性格なんて典から判っている細君は、気にするでもなく、盆に載せた茶道具を机脇の台に乗せ、にっこり笑って見せる。
「悪いな・・・」
 戸惑いがちに返ってくる礼ともいえない言葉に、柔らかな香の紅茶が差し出された。
「お疲れ様」
「ああ、お前もな」
 やっと微かな笑みを浮かべて、キールはそっと茶を啜る。思わず深いため息が漏れた。
「…何だったんだろうな…昨日は…」
「そうですね…」
 シルフィスも、同じようにため息を洩らす。
 二人は、怒涛のような昨晩の出来事を思い出していた。

 事の起こりは、兄のアイシュである。
 別に彼が悪いわけではないが、彼が不運を連れてきたような気がしてならない。
 一年ぶりに帰ってきた妻を、微笑と共に迎え入れた夫は、その後ろにいる人物を、瞬時に纏った不機嫌で睨みつけた。
「兄貴、なんで居るんだ?」
 その問いかけに、双子の兄はすっかり恐縮してしまった。
「い…いえ〜あの〜。シルフィスがもどって来たと聞いたので〜お祝いに〜」
 しどろもどろに言い訳する義兄を見かねて、シルフィスが助け舟をだす。
「大通りで偶然お兄さんとお会いしたんです。こちらにきてくださる途中だったんですって。荷物を半分持ってくださったんですよ」
 確かに、シルフィスと同じような大荷物を抱えている。
「そうか…」
 一応納得はしたものの、せっかくの再会に水を差された不快さは早々治るものではない、そんな彼の気分を察して、兄は慌てて荷物を弟に渡した。
「ぼくは一言お祝いを言いたかっただけなんで〜シルフィスお疲れ様でした〜。無事に帰ってきてくれて嬉しいです〜。じゃあ僕は仕事に戻りますね〜」
 せっかくだから夕食でも、と申し出る弟嫁と、さっさと帰れと全身で言っている弟を見比べて、アイシュは更に恐縮しながら仕事を理由にしてそそくさと帰っていった。
 さて、家に入った二人が、買ってきた物を置くために台所に直行し、予想通りお茶とコーヒーを淹れる以外は使われた形跡の無いそこに、妻がため息をついたのは、お約束の一つだろう。
 長旅で疲れているだろうにと覗き込む心配顔へ、にっこり笑い返した細君は、今夜は腕に縒りをかけると宣言し、結果、調理能力の低い夫が台所から追い出され、仕方なく居間でぼんやりとする。
 何をするでもなく椅子に沈みながら、全身の神経は台所の方へ集中してしまう。軽快な包丁の音や、鍋に水を張る音、パタパタと縦横無尽に台所を歩き回る妻の気配。
 やっとシルフィスが戻ってきた。そんな実感が心の奥に暖かな灯をともし、その灯が次第にじりじりと炙るような火に変わる。
 パンの焼ける香と、香辛料をふんだんに使った肉や豊かなスープの匂いが家中に充満する頃、空腹を訴えはじめた胃よりも、更に欲しい別のものを求めて、堪え性の無い旦那様と化したキールは、最後の仕上げに忙しい妻を背中から抱きしめていた。
「キール?も…もうすぐ出来ますから」
 久々の抱擁に、シルフィスが上ずった声を出す。それがキールの腕に力を篭めさせる。
「飯より食いたいものがあるんだ…」
 いくら久しぶりの再会でも、そこは夫婦である。何が欲しいのかは聞き返すまでも無い。腕の中の妻は首筋まで赤くなった。
「…嫌か?」
 おずおずと聞きながらも、その唇はゆっくりと、俯いて顕になった項をなぞっている。囁く声の熱さと、少しだけ強引な愛撫に、シルフィスは僅かに首を振って同意を示す。遠慮の無くなった手が胸のあたりを彷徨いだし、首の付け根にチリっと小さな痛みが走ったとき、不意に妻が慌てだした。
「あ、あの…お夕飯…火からおろさないと、焦げちゃうから…」
 確かに、妻を味わった後の楽しみにしている夕食が台無しになるのも本意ではない。渋々手を離すと、真っ赤になったままシルフィスは竈(かまど)とオーブンに向かって小走りに逃げていった。
 両手の中から無くなった温もりに、何とも言いがたい寂しさを感じ、中断してしまった行為にバツの悪い気分になる。それでも台所から立ち去り難く、大慌てで鍋を火から遠ざけたり、オーブンからパンを取り出す妻の背を見詰め、次に引き寄せるにはどういう顔をしたらいいのだろう、と、益体も無い思考に浸る。一方シルフィスは、早鐘を打つ心臓と、いっかな冷めない頬の熱さを持て余し、既に当初の目的だった料理を火からおろす作業を終えても、意味も無く竈の火を確かめたり、パンの焼け具合をみたりと、夫の元に戻りたいのやら戻り難いやら。再開された新婚生活は、止まっていた一年前そのままの状態で、もどかしい面映さはなんともぎこちない、それでいて艶めいた予感を孕んで、二人だけの時間が過ぎていく。
 
 逃げたままで戻ってこないシルフィスに焦れたキールが、再び背中から抱きしめた。
「もう…いいだろう?」
「は…はい…」
 何時に無く大胆な振舞いをしている自分に戸惑いながらも、ぴたりと硬直した妻に愛しさがこみ上げ、キールは再びシルフィスの首筋に唇を沈めた。
「…っ…」
 声にならないかすかな喘ぎを合図に、彼は自分の眼鏡を外す。本当なら誘った後に寝室へ連れて行こうと思っていたのだが、いざ抱きしめてみると、そんな僅かな時間すら惜しくなる。第一、その移動用の時間は、既に料理の保護に消費されている。もう待てるわけが無い。腕の中の柔らかな感触は、一年ぶりの感慨と相俟って、彼を更に煽り立てていた。
 夕方とはいえまだ明るい上に、ムードもへったくれも無い場所だったが、早くなる心拍と呼吸と柔らかな感触とで、もう何処だろうとどうでもいいやと腹を決めた瞬間、玄関のドアがけたたましいノックを響かせた。
「きゃっ!?」
「わっ!」
 慌てて飛び離れ、部屋の両側で自分の心臓を押えていると、ドアの騒音は更に激しくなる。
「キール。居ますの?開けてくださいませ」
 遠慮会釈の無いノックと共に、聞き知った声が張り上げられる。
「「姫?」」
 夫婦でハモって顔を見合わせる。何とも迷惑な珍客は、シルフィスの親友であるこの国の第二王女であるらしい。
「こんな時間に何しにきたんだ?あのじゃじゃ馬」
 これから起るであろう展開が瞬時に想像できて、キールが苦々しく呟いた。どうせお忍びだろう。つまり自分か妻のどちらかが王宮まで送っていかねばならないのだ。まったく迷惑も甚だしい。
「それより、何時までもお待たせしては・・・」
 さっきまでの余韻に頬を染めながら、乱れかけた衣服を直しつつ、シルフィスは小走りに玄関へと急ぐ。そんな可憐な姿を見せ付けられながら、見送るほか無い夫は、憮然として外していた眼鏡に手を伸ばした。

「キール。わたくしが参りましたのよ、開けてくださいませ」
「はい、ただいま」
 相変わらず鳴り続けるドアに、シルフィスが返事をすると、破壊活動かと思えた騒音がぴたりと止む。
「お待たせして申し訳ありません」
 詫びながらドアを開け、姫君が居ると思われたところにそそり立つ壁に絶句する。
「………隊長!?」
「邪魔をする…」
「シルフィス。お帰りなさいませ。無事のお祝いに参りましたのよ」
 長身の騎士の後ろから、満面の笑みを浮かべて姫君が親友へ抱きついてきた。

 居間には、奇妙な沈黙が横たわっている。
 無口さ加減ならば誰にも負けないレオニスと、元々愛想が欠落しているキール。二人だけで居間に対峙して、会話がはずむ訳が無い。
 とりあえず出された茶を前に、だんまり比べが行なわれていた。
 一方、台所の方からは、実に華やかな笑い声が響いてくる。帰還の祝いに来た姫君は、料理にいたく興味を示され、主婦の城へ乱入していったのである。
 既にほとんどが出来上がっていたが、最後のサラダを作ると張り切っているらしい。
「シルフィス。これはどうしますの?」
「レタスですか。食べやすい大きさにちぎって頂けたら……」
「シルフィス!お湯が吹き上がっていますわ!」
「姫、サラダにお湯は関係ないです!」
「きゃあ!輪切りのきゅうりさんが生きてますわ」
「姫、包丁振り回したら危ないです!」
「あら?シルフィス虫に噛まれてますわ、ほら、ここ。赤くなってましてよ。あら、ここも」
「いっ……いえっ何でもありません!」
 危険を孕んだ実に賑やかなやりとりに、レオニスはそっと胃のあたりに手をやった。キールもまた米神に指を当てる。
「すまないな……」
「いえ……隊長さんこそお疲れ様です」
 レオニスの眉間が更に深く刻まれる。
「殿下の要請だ……」
 この一言で納得がいく。
 たぶん、シルフィスの帰還を知った姫君は、会いに行きたいと駄々を捏ねたのだろう。妹にとことん甘い皇太子は、護衛にレオニスをつけて寄越したというわけである。常に無くずいぶんすんなりとお忍びを許した皇太子に、少しだけ妙な気はするが、一年ぶりの親友との再会だと、姫がさぞごり押ししたのに違いない。どちらにせよ、傍迷惑な話である。

 男二人の胃痛と頭痛を他所に、程なくサラダが完成し、まあここまで来ると、皇太子の外出許可は下りているし、手伝った(邪魔した?) 姫君を無碍には追い返す事も出来ず、一年ぶりの夫婦の晩餐は、何故か珍客二人を加えた形となった。
 キールは不機嫌だったが、晩餐は当初危惧していたほど酷くはなかった。ダリスからシルフィスが持ち帰った料理は殊のほか美味かったし、我侭を押し通して飛んできた割には、姫君の話術は格段に優れ、どちらかというと黙りがちな他の三人を上手く引っ張り、キールやレオニスにさえ笑みを浮かばせるのに成功した。
 帰り際もすんなりと、楽しい食事の礼など言って、和やかな雰囲気のまますっかり満足した姫君は去って行った。
 それでも、ドアを閉じた途端、夫婦が揃ってため息をついたのは、しょうがない事かもしれない。
 何しろ、キールにしてみれば、一番食べたいものは常に目の前にありながら、ずっとお預けになっていたし、シルフィスの方は、夫に点けられた火が身体の奥で燻っていて、キールが隣で動く度、つい意識してしまう自分を、上司や姫君に知られないように必死だったのだ。
 だからやはり、お互いのため息に苦笑して見合わせた顔が、そっと近づいていくのは自然な反応だろう。
 しかしそれは再び、控えめなノックに遮られた。
 それはあくまで控えめだった、だが二人はそのドアにもたれた格好だったので、騎士団大尉が力任せにノッカーを叩いた時並に大きく思えた。
「うわっ」
 またもや慌てて離れたところに、遠慮がちな声が寄越される。
「すみません〜キール〜起きてますか〜?」
 まだ宵の口である、キールの生活習慣から考えれば、起きているかと問うのは愚問だろう。兄が何に遠慮しているのかは明白である。ご希望に添って、このまま無視してやろうかとも思ったが、それより早くシルフィスが答えてしまっていた。
「はい、今開けます」
 何しろ玄関ドアを背負っていてのだ、ドアはすぐに開かれ、恐縮しまくった兄がぽつねんと立ち竦んでいた。
「夜分にすみません〜」
「何の用だ?」
「どうしたんですか?お兄さん」
 アイシュは、シルフィスにお兄さんと呼ばれる度、本当に幸せそうな顔をする。(それがキールには良く判らない。いちいち感涙に咽ぶのは何故だろう)そして嬉しそうな笑みのまま、懐から封書を引っ張り出した。
「実は〜殿下からの伝言を預かってきたんです〜」
 瞬間、キールの眉間に皺が刻まれ、シルフィスは引きつった笑みを浮かべた。
「断る」
 即座にキールが言い放つ。
「キール、まだ何も言ってません〜」
 内容なんて、聞かなくても想像できる。
「どうせ交換研修終了の祝い事だろう?そんなものには出ん」
 にべも無く言い捨てる弟に、兄は滝涙で嘆く。
「キールぅ〜そんなこと言わないでください〜」
 だが、兄がどれだけ嘆こうと、キールは吾関せずとそっぽを向く。
「シルフィスは旅の疲れで寝込んだとでも言っとけ」
「キール……」
 冷たく言い放つ弟と、おろおろと困惑する弟嫁を見比べて、兄は深くため息をついた。
「そうですね〜そうすれば出なくてもいいですけど……明日からお見舞いの方々が押しかけるでしょうね〜」
「!?」
「姫や殿下は、真っ先に御出でになるでしょうし……その他の方々もお見舞いなら、堂々と来れますからねぇ〜」
 とどめとばかりに気の毒そうに微笑むアイシュに、キールは言い返す言葉を捜す。のんびりした言動と行動、お人好しに思える性格の後ろに、兄が隠し持つ強かさを、キールは良く知っている。でなければ、長年王宮文官なんぞをつとめていられる訳がない。そして、その文官の目で見た、彼の読みは的確なのだ。
 結婚前、シルフィスが女性に分化した頃、どれだけの男たちが彼女の周りで蠢いていたか、キールは苦々しく思い出す。分化がキールへの思慕によってなされ、キールと想いを通じ合わせたと知った後でも、連中は諦めては居なかった。
 実のところ、今でも虎視眈々と狙っている。ここはキールの家であり、シルフィスはその妻だ。普通なら、家長であるキールに牽制され、近寄らない連中が、シルフィスの病気見舞いという大義名分を手にしたら……しかも一年ぶりの帰還、というお題目まで付いている。あわよくば、これを機にお近づきになろうという、せこい奴等が押しかけてくるのは火を見るより明らかで、想像するだけでもうんざりする。これ以上、二人の時間を邪魔されるのはごめんだった。
「…………いけば良いんだろう……」
 少しだけ悔しそうに返事を返すキールに。アイシユは満足げに頷いた。
「ありがとうキール」
 半ば脅すように承諾させて、ありがとうもないもんだ。
 憮然と睨み返すキールへアイシュは品のいい透かしのかかった封書を差し出す。
「はい、招待状です〜」
 突き出された物を引っ手繰るようにして受け取ると、兄は別段気にする様子もなく、ピンと背筋を伸ばして居住まいを正した。
「お役目により、言葉を改めます〜。キール・セリアン殿、及び妻女シルフィス殿。王宮にての晩餐会への出席、快く受けられ、皇太子殿下セイリオス・アル・サークリッド様の名代として感謝する。シルフィス殿は今回の主賓である。明日夕刻、招待状の刻限にお出でになられるように」
 口上を言い終えて、再びほにゃほにゃとした笑みに戻る。
「遅れないで下さいね〜。そうそう、ドレスでしたら〜殿下がもうご用意されていますから〜心配しないで下さい〜」
 姫ではなく皇太子というところがキールの癇に障る。たぶんこの晩餐会は、皇太子が以前から秘密裏に準備していたものなのだろう、でなければ隠し事が出来ないあの姫君が、さっきの夕食に話さない筈が無い。妹に内緒でこの準備を終えるに、珍しくすんなりと、護衛までつけてここに寄越したのだ。
―――あのタヌキ……
 皇太子が悪名高いシオン・カイナスの上司であり親友だと痛感するのはこういう時だ。
 姫君を牽制したのは、びっくりさせて喜ばせるためか、それとも、準備(特にシルフィスの)にしゃしゃり出てくるだろう彼女の先手を打つためか……おそらく両方。
 確か、帰還した研修員達と共に、王からの親書を携えたダリスの使者が入国しているはずだ。国際的な宴の席で、クラインとアンヘルの掛け橋であるシルフィスが、今度はダリスとの友好の象徴となる。その政策を提示し推し進めた皇太子にとって、さぞ有意義な晩餐会となる事だろう。勿論、交換研修員はガゼルもメイもいるが、シルフィスの美貌と、背負う背景ほど政治的に好都合なものは無い。
 用意されているドレスとやらは、さぞ皇太子好みの代物なのだろう。
 そんなものを着せられたら、会場に入った途端に,エスコート役を獲られるに決まっている。
「ドレスぐらい、買ってやってる。心配には及びませんと伝えてくれ」
 人の女房を何だと思ってやがる。腹に据えかねる苛立ちを押えながら、キールがぶっきらぼうに言い返す。と、横で少しはらはらと見詰めていたシルフィスが、薄く頬を染めた。
「あのドレスですね……」
「ああ」
 結婚直後、夜会にドレスで引っ張り出される度に、姫君から借りているのを見かねて、キールがプレゼントしたドレス。(もっとも、メイとシオンの口車に乗せられたからなのだが)
 残念な事にもらった途端にダリス行きが決まり、今のところそのドレス姿を見たのはキールのみである。
「あれでいいだろう?」
 キールにしてみれば、自分だけが見ていたい姿なのだが、この際仕方がない。
「勿論です」
 嬉しそうにシルフィスが微笑む。似あわないドレス姿でも(シルフィス主観)キールからのドレスならば、嬉しいし自信がもてる。妻の心からの笑みに、夫の頬も、少しだけ和らいでいた。

 ドドドドド……
「じゃあ、何も心配いりませんね〜はい〜殿下には僕からお伝えしますね〜」
 アイシュはにこにこと頷きながら、手荷物を整えて軽くお辞儀をする。
 ドドドド……・
「お兄さんは王宮へ戻られるんですか?」
 結局屋内には入らずに、玄関先で話し込んでしまったのを申し訳なく思いながら、シルフィスが訊ねると、アイシュはのほほんと首を振る。
「いいえ〜これからメイとガゼルのところへ行くんです〜」
 ドドドドド…
「ガゼルなら、明日まで騎士団の寮には居ないはずですよ、それにメイなら…」
 言いつつふと視線がアイシュの後ろへ流れる。
「はい〜?」
「兄貴、後ろだ……」
 ドタドタドタドタ……
 キールの言葉と共に、背後でかすかに響いていた地鳴りのような音が、はっきりと足音になり、次いで弾けるような声が寄越される。
「うわーー!アイシュどいて~――~!!」
「え?」
「きゃっ」
 アイシュが無防備に振り向いたのと、キールがシルフィスの腕を掴んで引き寄せたのと、メイが大きな鞄を振り回しながら、怒涛の勢いで駆け込んできたのがほぼ同時だった。
「きゅうっ!」
 重い鞄を持ったメイの腕が、絶妙な角度でアイシュの喉にぶつかり、走ってきた勢いを受けてそのまま身体が綺麗な弧を描いて家の中へ弾け跳ぶ。実に見事なウエスタンラリアットである。
「あ……あっちゃ〜」
 慣性を相殺されて止まれたメイは、玄関ホールに大の字に伸びたアイシュを眺めて舌を出した。アイシュに巻き込まれる位置にいたシルフィスは、キールの腕に抱えられて、目を丸くしている。そして、全てを見越して、大事な妻を守ったキールは、兄と元被保護者の娘を交互に見比べて、呆れたようなため息を吐いた。

 気絶した兄を居間に運び、確実に鞭打ち症になっているであろう首にとりあえず治癒魔法をかけ、ソファーに寝かせると、三人は台所の椅子に腰をおろす。メイが残り物で好いから食べさせてくれと頼んだからだ。
「………………で?」
 元保護者の問いに、メイは誤魔化すように頭を掻いた。
「あはっあはっあははははははは……」
「笑って済むのか?」
 アイシュの口真似で笑ってみせるメイに、キールの冷たい視線が突き刺さる。
 うぐ、と喉の奥で唸ってから、メイはシルフィスが出してくれたスープの皿を覗き込み、一心にスプーンを口に運び出す。
 よほど腹が減っていたのだろう、皿は瞬く間に空となり、メイはこの家(や)の主婦に申し訳なさそうに皿を差し出す。
「お代わり、良い?」
 親友の頼みに、快く微笑みながら立ち上がる妻の後ろ姿を見ながら、キールは眉間の皺を深くした。
「好い加減、理由を話せ。こんな時間に何の用だ?」
 その言葉に、メイは小さく首を竦める。悲しいかな、恐らくこの世界で一番長く彼女に接してきた彼には、大体の事が見えてきた。
「……泊めてほしいんだな……」
 途端に、メイの表情が明るく綻ぶ。
「さっすがキール。やっぱあたしの保護者だよね♪」
「・・・元、だ・・・」
 キールの小さなつっこみは、メイの耳には届かない。
「やっぱ判ってくれてるわねーーお邪魔かと思ったんだけど〜他に行くとこなくてさ」
 とうとうとまくし立て始めたメイに、キールが深いため息を吐く。ため息の元は、シルフィスの持ってきたお代わりのスープと、簡単なサラダにがっつきながら事の経緯を話し出す。
「参ったわよ、半年ぶりに戻ったらさ、院の部屋、倉庫に戻ってるし、あたしの私物はもう無い、なんて言われちゃってさ。クラインの仕事でダリスくんだりまで行ってやったってのに、まさか路頭に迷うとは思わなかったわ」
 魔法研究院の長老たちへの悪態をひとしきり吐いた後、やっと人心地の着いたらしい娘は、礼儀正しく両手を合わせて食事の感謝を述べた。そして、
「だから、悪いんだけど、落ち着くところが決まるまで居候させて」
と締めくくる。
「大変でしたね、メイ」
 すっかり同情したシルフィスが差し出す食後のお茶を、嬉しそうに受け取ると、しみじみとため息を吐く。
「ほんとよ〜踏んだり蹴ったりって、この事だわ。天涯孤独、何処へいっても不運なのよね〜あたしって」
 こうこられると、そもそも彼女の不運の元凶のような罪悪感があるキールとしては、邪魔だ出て行けと追い出すわけには行かなくなる。ただ、ひとつだけ引っかかる疑問を、投げかけてみる事にした。
「お前の部屋なら、シオン様の所にあるんじゃないか」
 今夜の彼女に、これは禁句だったようだ。
「無かったわよ」
 間髪居れず憮然とした返事が返ってくる。
「どうしてだ?院の部屋を引き払わせたのはあの人だぞ。お前の私物その他は、皆あの人が持って行った。お前がダリスに行ってすぐに」
 言いつのる元保護者に、メイの肩が微かに震えだす。変わりやすい表情は、何故か能面のように無表情になっていた。
「メイ、どうしたんですか?」
「・・・行ってみたら、女でも居たのか?」
 ダンッ!と両拳をテーブルに叩きつけ、的確な突っ込みをしてくれたこの家の主を睨みつける。
「図星か…」
 凄まじい視線など何処吹く風でキールは軽く息を吐く。
「お前な、相手がどういう人か判ってて、付き合い始めたんだろう?」
 キールの言葉に仰天したのはシルフィスである。
「キール!?」
 思わず腰を浮かせる妻に、夫は軽く手のひらを見せて座らせる。
「メイ、部屋に女が居たとしても、別にあの人が浮気していた証拠にもならないだろうが、むしろ、お前に嫌がらせする為に、昔の女が待ち構えていたってのが真相かも知れんぜ」
 続いた言葉にほっとしたシルフィスだったが、メイの方はすっかり俯いてしまっていた。
「何か言われたのか?その女に」
 少しだけ声音を和らげて訊ねると、細い首がこくんと動く。
「…王都に帰ってきて、馬車降りて、まっすぐシオンのとこに行ったのよ・・・王宮の執務室…」
「ああ」
 めんどくさがりの筆頭魔導士は、自宅を持たず、王宮で寝泊りしているのが日常で、少なくともメイがクラインに居た半年前まではそうであった。
「あいつ居なくてさ、待ってようかと思ったんだけど・・・奥の仮眠室から、女が出てきた…」
「それで?奥にシオン様は居たのか?」
 冷静に聞き返すキールへメイは力無く首を振る。
「居なかった…と思う…そうしたら、その女、主人に何か用ですか?って…」
「はあ?」
「主人?」
 夫婦が揃って目を見開く。奇天烈な言葉を聞いたものだ。
「許婚なんだって。親が決めたから確定なんだって。もうすぐ結婚するんだって」
 ぶつぶつとぼやく娘に、思わず苦笑が漏れる。
「あからさまに胡散臭いぞ。勘当されているあの人に、親の決めた許婚なんぞがいるわけ無いだろう?第一、結婚式なら、来月のお前等だ」
 焦げ茶の髪がぶんぶんと振られ、同色の瞳が意地の強い光を宿す。どうやら何か他にも言われているらしい。
「何言われたんだよ・・・」
「・・・ダリスの王妃様になられるそうで、おめでとうございます…」
「あ…」
 シルフィスが眉を寄せる。キールは小さく肩を竦めた。
 ダリスの新王、アルムレディンが研修員として赴いていたメイに求婚した事の次第は、シルフィスからの手紙で知っている。メイが御蔭でどれだけ苦労したかも、キールには良く判っていた。
「その噂なら、こっちにも来ているさ。で?あの人がそれを鵜呑みにして、他に女作った、と思った訳か……莫迦かお前?」
 思いっきり落ち込んでいるらしい女に掛ける科白ではないと思いつつも、こんな口調なのだからしょうがない。キールはそのまま言葉を続けた。
「もし本当に鵜呑みにしたんなら、女作る前にお前を殺しに行くぜ。あの人なら、絶対そうする」
 目の前の娘に対する筆頭魔導士の傾倒振りと、気性と実力を考えれば、それは容易にはじき出される答えである。
「常識なんか通じる相手じゃないだろう?お前もそうだがな。……まぁ、頭冷やしたくてここに来たんだろう?泊めてやるからゆっくり考えろ」
「……うん」
 珍しく素直に頷く娘に、ダリスでの苦労と長旅の疲れを見て、妻に向かって肩を竦めて見せる。親友を心配そうに見詰めながら、シルフィスはゆっくり頷いた。
「メイ、客間を用意します。休んだ方が良いですよ」
「ありがと……」
 促されるまま腰をあげる。なんともこの娘らしくない落ち込みぶりだが、食事はしっかり食べているし、一晩寝れば元凶を殴りに行く元気も出るだろう。
 そう結論付けて、キールも二人の後ろについて台所を後にした。

 ダンダンダンダンダン!
 居間に戻った所で、三度(みたび)ドアが叩かれる。苛立ったように性急に、しかも遠慮の無い叩きっぷりは、ノッカーを握る人物を全員に連想させた。
「キール!あたし居ないって言って!」
 一言言い捨て、メイは荷物を抱えて家の奥へと走り出す。向う先は、離れへの渡り廊下。どうやらラボに隠れるつもりらしい。
「キール・・・」
 不安げな妻に頷き、キールは忌々しい千客万来の状態に、吐き捨てるようなため息を吐く。
 ふと、ソファーで伸びている兄が目の端を掠め、キールは眉間の皺を深く刻む。言掛りだし八つ当たりなのは判っている。しかし、そもそも彼が来なければ、こうまで賑やかには為らなかったかも知れない。
 何より暢気な寝顔が癪に障る。
「くそ……」
 小さく呟き相変わらず派手に鳴らされているドアへ向う。
 一年ぶりの再開だというのに、やっとシルフィスが戻ってきたというのに、この慌しさは何なのか?いっそメイではなく、自分がダリスへ行けばよかった。妻恋しさに追いかけて行ったと、からかわれるのが嫌なばかりに、いらぬ意地を張ったのが悔やまれる。
 研修員選抜の候補には自分も加わっていた。最後は本人の意思確認だっただけなのだが、琥珀の瞳に、冷やかしてやろうと待ち構える笑みが、ありありと浮かんでいた。あれさえ見なければ、ダリスの魔法知識は魅力だったし、当然シルフィスと共に居られた・・・
 そう、悪いのは兄ではない。それもこれも、全部この男が悪いんだ!
 無言でドアを思い切りよく開け放つ。
「よ、キール。昨日ぶり」
 ノッカーごと振り回してやろうと勢い込んだにもかかわらず、常と同じ飄々とした笑みで、筆頭魔導士は気楽な挨拶を投げて寄越す。
「…何の用ですか?」
 こちらは思いっきり仏頂面で答えてやる。さっきはメイの心中を慮って、この男を擁護するような言い方をしたが、別に彼に味方する気はさらさら無い。むしろ久々に首を擡げてきた保護者意識が、悪びれない何時もの態度に腹立たしさを掻き立てていた。
「ん〜?ちょっとな」
 この男には珍しく語尾を濁しながら、仏頂面の後輩の背後を透かし見て、所在投げに佇むシルフィスを見つけて口元だけで笑みを作ってみせる。背後で慌ててお辞儀をする気配を感じた。
「ま、別に用って訳でもね〜んだが…」
 軽く頷きながら、再び言いかける筆頭魔導士に、キールは不思議なものをみているような気がした。この男でも躊躇う事があるらしい。何が聞きたいのかなんて一目瞭然だ。だが、教えるつもりはない。
「用が無いのなら帰っていただけますか?俺もシルフィスも疲れているんです」
「今日は客が多かったみてぇだからな」
 キールの不機嫌から、容易に想像のつく状況を魔導士が笑う。それがまたキールの癇に障った。
「判っているなら、どうぞお引取りを。明日の準備がありますから、失礼します」
 閉じられかけるドアを、シオンが片手で押えた。
「おいおい、ツレねぇなぁ。明日っつ〜たって夜じゃねぇかよ」
 言いつつぐいぐいと身体で押し込んでくる。
「俺も明日の準備で、今まで殿下に扱使われていたんだぜ。茶ぐらい飲ませてくれや」
 相変わらずの強引さで、魔導士はずかずかと玄関ホールへ入り込んできた。しかし居間には目もくれず、そのまま台所へ歩き出す。
「居間で接待してくれ、なんて贅沢言わねぇからさ。頼むわ」
 睨みつける家主に、人懐っこい笑みで片手拝みに頼んでくる。この男の、こういう可愛気が、疎みきれない原因だろう。キールは業とらしく大きなため息を吐いた。
「飲んだら帰ってくださいよ」
「ああ、サンキュな。シルフィス、つ〜わけでヨロシク」
「は、はい」
 無理やり客となった男へ茶を淹れるべく、シルフィスは慌てて台所へ駆け込んでいく。その姿を目で追いながらふと立ち止まり、シオンがはじめて小さく息を吐いた。
「カミサン相変わらず美人だなぁ…お前等、早く餓鬼作れ。そうすりゃ、諦めの悪い連中も、納得するだろうぜ」
 しみじみとした科白に、頭の血管がまとめて切れそうな気分になる。
「…シオン様…」
 そうしたいのは山々だが、その時間を誰が邪魔しているのか。怒鳴りつけたい気分をどうにか抑えて、キールはむかっ腹の原因を問い返した。
「ご自分はどうなんですか?」
「俺か?俺の嬢ちゃんとっ捕まえれたら、さっさと仕込むぜ」
 男同士の遠慮のない会話とはいえ、ほとほとのめり込みたくなるような切り替えしである。
 相手が絶句するような事を言って煙に巻くのは、この男の常套手段なのだが、琥珀の瞳に、常に無い焦燥が浮かんでいるのに気がついて、キールはほんの少し眉を緩めた。

 程なく、多少面子を変えた三人が、台所のテーブルで茶を啜る。
「シルフィス、茶の淹れ方上手くなったな」
「シオン様にご教授いただいた御蔭です。キールも誉めてくれるんですよ」
「さりげなく惚気んじゃないって〜の」
「あ…いえ…」
 名人芸と定評のある茶の師匠に、誉められついでに突っ込まれて、シルフィスが頬を染める。亭主の前で他の男にそんな顔をするんじゃない。と、心の奥でぼやきながら、キールはゆっくりとカップを下ろした。
「シオン様。言って置きますが、この家にメイは居ませんよ」
 先刻、元被保護者の娘に頼まれた言葉を、おそらく彼女が居ると確信しているであろう魔導士に言ってやる。
 案の定、男は困ったように鼻の脇を掻いた。
「やれやれ…そこまで怒ってるのか…」
「何があったんですか?」
 親友を心配する妻が、客に訪ねる。
「それはあいつが言ってただろう?」
「悪行が露見したってわけですね」
 キールの冷たい声に、魔導士は軽く肩を竦める。その仕草は、ラボに隠れている娘に良く似ていた。
「俺には災難だぜ」
 ぼやきつつ再び茶を啜る。歯切れの悪い筆頭魔導士という、世にも奇妙なものを眼前にして、夫婦はシオンの肩越しに顔を見合わせた。
「許婚がいらっしゃったとか聞きましたが」
「ああ」
 肯定の返事に、シルフィスが顔色を変える。
「本当なんですか!?シオン様!」
 思わず腰を浮かせる女騎士に、魔導士の苦笑が返された。
「半分だけ…な」
 無言で先を促す後輩の視線に、男は裏事情を話し始めた。
「カイナス家もふっるい家だからな、生まれた時に決められて、顔も見たこと無いうちに、俺が勘当された時点で解消された。向こうさんもさっさと嫁に行って、今はもう関係ない女だけどよ…どうやら出戻ったらしいんだ」
 出戻り娘に、そうそう良い片付き先があるわけはない。そこで再浮上してきたのが、元許婚の魔導士である。勘当された当時は何処でのたれ死ぬか判ったものではなかった三男坊は、今では時期国王である皇太子の右腕で、将来有望羽振りも良い。ついでに女にだらしが無いという風評も最近形を潜めている上に、婚約者と目されていた娘が、何とダリス王に望まれている。多分帰ってくるわけが無い。千載一遇、これはなんとしても掴まえよう。てなわけで、親に嗾けられたか自分で腹を決めたのか、その令嬢に付きまとわれているらしい。
「…失礼な話ですね…」
 何処の世界に、元許婚だからと言って、それなりの地位に居る未婚の男性に、出戻り娘を押し付ける道理があるのか、常識外れな理由に、キールはあきれ返った。
「俺は相手にしてねぇんだがな、執務室に入り浸るわ、メイドや部下達に触れ回るわ…ほとほと参ってんだよ。挙句に嬢ちゃんにまで、しょうも無い事吹き込みやがって」
 王宮嫌いに託けて、ここ一月ばかり足も向けなかった為に、ほとんど知らなかったが、笑えばいいのか同情するべきなのか、この魔導士に似合ってるんだか、似合わないんだか良く判らない災難の理由に、夫婦は揃って肩を竦めた。
「なんできっぱり断らないんです?」
「断ったさ。これ以上付き纏うんならぶっ殺すってな」
物騒な科白をさらりと言いつつ、喉の奥で苦笑する。
「芝居っ気たっぷりだぜあの女。『このまま実家の厄介者に甘んじるくらいなら、どうぞシオン様の手で殺してくださいまし』だとさ。ヤダぜ、んなメリットのね〜殺し」
メイをへこませた令嬢の、肝の座り具合が垣間見えた。ふと、以前ローゼンベルク家の少女に付きまとわれて、メイに助けを求めた経緯が思い出され、キールは口の端をほんの少しだけ引き上げた。その事件が元で、二人は急接近したのである。あの時は政治がらみで、結局彼女を囮に使うと言う阿漕さであったが、元許婚に関しては、どうやら本当に困っているらしい。必要とあれば、男にも女にも容赦の無い男だが、時々妙に人の好い一面をちらつかせる。本性や腹の中はどうでも、こういう可愛らしさを衒(てら)いも無く出せるあたりが、かつて女誑しの二つ名を献上されていた由縁なのかもしれない。口当たりのいいカクテルのように、この男は程好く人を惹きつける。
 これで女の機嫌を取るよりも、実は花の世話や昼寝の方が好き、という怠け者でなければ、立派なジゴロになれるだろうに。
まあ、そうではないからこそ、自分の保護下の少女を任せられると思えたのだが…
そこまで考えて、益体も無い思考に苦笑する。七つも年上の先輩を、真剣に心配している自分に気が付いてしまったのだ。夜中に押しかけて、人の家で平気で茶を要求するような男だが、長年嫌がりつつも付き合いを続けてきた所為か、多少なりと気心が知れてくる。お陰で、彼が何を頼みにしているかも判ってきた。ついでにその裏までも・・・
まったく、何で自分はこうまでお人好しになったんだか。夫婦は似てくると言うが、妻の人の善さが移ってきているのかもしれない。
「……何笑ってんだよ」
 一人くつくつと笑い出したこの家の主へ、客が実に不愉快そうな視線を向ける。自分が何を言うかなど、とっくに判っているだろうに。
「晩餐会は、シオン様の企みでもあったと言うことですか」
 きょとんと首を傾げる妻と、にやりと口の端を上げる魔導士を見比べる。
「言い出しっぺは奴さんだぜ。ファーストダンスは絶対シルフィスと踊るとさ」
「俺が付いて行くんですから、そんな真似させませんよ。まあ、シオン様としては殿下の機嫌を少しでも取り付けておいた方がやり易いんでしょうがね。猿芝居の段取りは、もう済んでいるんでしょう?」
「ま〜な」
「交換研修員を慰労する晩餐会にメイをエスコートして、殿下その人から、公の場で来月の結婚式が楽しみだとかなんとか言ってもらえば、あいつとの仲は皇太子の声掛りで完全に公式のものになる。いくら元許婚がずうずうしくても、十分に牽制できるって訳ですか…そういう事して、背中が痒くなりませんか?」
 嫌味に嫌味に、謎解きをして見せる後輩に、筆頭魔導士が肩を竦める。
「とっくに鳥肌立ってるぜ。どっちにしろ、祝い事は早いほうが、面倒にならなくて良いとは思わねぇか?」
「祝い事ねぇ・・・貴方もメイも、厄介ごとの塊じゃないですか」
 少し動くだけで、二人ともどうしてここまで大きな厄介を拾って来れるんだろう?キールは傍迷惑な体質に、ほとほと呆れていた。
 三文芝居の筋書きに、二人の魔導士が薄寒い笑いを交わすのを、横で聞いていた妻は呆れたように口の端を下げた。
「でも・・・ずいぶんまだるっこしい事をなさるんですね」
 こういうあざとく派手な事を多分嫌うであろう親友を思い浮かべて、シルフィスが首を捻る。
 キールは、そんな妻にもう一つの種明かしをしてやった。
「正式に婚約者が決まったなら、ダリスの使者もごねる訳に行かないだろう?」
「え!?」
 意外な言葉に、翡翠の瞳が見開かれる。
「ダリスの使者は、お前達と一緒に着いているだろう?晩餐会はそれの歓迎式典でもあるってわけさ。そこでダリスから正式にメイへの求婚の申し出をされるのの出鼻を挫こうってのが真相だ。元許婚殿はついで、でしょう?」
 ある程度の情報があれば、この程度の推論は簡単である。案の定、魔導士はしかつめらしい顔をしながら目が笑っている。
「でも、それは帰国前夜に解決したはずです」
 ダリスでの研修終了の晩餐会で、国王アルムレディンは、ラストダンスを最後に、メイの事を諦めた筈だった。しかし夫は肩を竦める。
「例えダリス王が諦めたとしても、国民が治まり着くとは思えないぜ。なにせ救国の英雄だ。メイがお前達と一緒じゃないと、町を歩けないくらい盛り上がっていたんだろう?」
 言われてみればと、シルフィスが考え込む。ダリスでのメイの人気は尋常ではなかった。特に、冬の湖で瀕死の子供を助けてからは、このまま拉致されて神殿に連れて行かれかねない盛り上がり振りだった。
「でも、やはりアルムレディン陛下が諦めてくれたんですから・・・だから、ラストダンスでお別れして来たんですよ」
 半ば自分を納得させる為に、なおもシルフィスは言い募る。
「シオン様、俺にばかり説明させるつもりですか?」
 別に妻へ言葉を惜しむ気は無いが、そろそろ当事者の口から言わせたい。
「へーへー。ダリスの野郎は、俺の嬢ちゃん、完全に諦めていねぇんだよ。ったく・・・お前さんが今言った、そのラストダンスが曲者だぜ。ああいうのは大体、意中の女に申し込むもんだろうが」
「あ・・・でもお別れにも…」
「当人にはお別れでも、周りは承知したと見てるんだよ。現に今日、それとなく打診してきたぜ。あの野郎解かっててやりやがった。ご丁寧にファーストダンスもあいつだろう?さすがは盗賊上がり、たいした詐欺師だぜ」
 なんとも生臭い話だ。キールは妻へ苦笑して見せた。
「シオン様の所の問題も、地獄耳で押えていたんだろうな、このままメイが腹を立てた勢いで頷きでもしたら、さっさとダリスに連れて帰れるし、断られても、臣下がお先走りをした、で、誤魔化す寸法だ」
「ったく、いけずうずうしいったらねぇな」
 忌々しげに苦笑しながら、ちらりと入り口へ目を走らせる。
「大体嬢ちゃんも嬢ちゃんだ。台風娘がちぃっとばかし大人しくなったから、勉強させようと出してやったら、国際問題つれて帰ってきやがって。セイルの野郎は面白がるしな。苦労したんだぜ、判ってんのか?メイ」
 台所の入り口の影で、ガタリと音がする。そのままパタパタと駆け去る足音が聞こえた。ラボに隠れたものの、やはり気になって立ち聞きしていたらしい。
 キールは面倒臭げに小さく息を吐いた。
「シルフィスはその出汁の一つですか?姫にまで隠していらした様ですが」
「ま〜な。殿下にとっちゃ、シルフィスは格好の宣伝塔だからな。自分の横で光らせる予定が、その前にお前さんに掻っ攫われた。ちょっかいの一つも出したくなるってもんさ」
 だから餓鬼つくれってんだよ、と爆弾を落としながら、魔導士が立ち上がる。
「ラボ借りるぞ」
 どうやら説得に本腰を入れるつもりらしい。
「構いませんが、『話し合い』の間は結界張ってください。ラボには実験途中の貴重な本や資料が山済みですから」
 落とされた爆弾に真っ赤になった妻を見ながら、仏頂面に戻りきれない少しだけ赤らんだ頬でキールが答える。
「判ってますって」
 もし何か壊されたら、上乗せして請求してやろう。軽い返事にそこはかとない不安を掻き立てられて、奥へと遠ざかる足音を耳で追う。それは渡り廊下のドアを開け、更に奥へ消えていった。

 ドウンとラボの方から爆音が響き渡る。
 思わずシルフィスが腰をあげた。立て続けに二度爆音が轟く。
「気にするな」
 爆音以外に何かが壊れたような音がないのを確かめて、キールも立ち上がった。僅かな魔力の気配に、約束通り結界が張られたと判る。
「キール・・・」
 はらはらと気を揉む妻に、夫は苦笑で答えた。
「気にするなって」
 微かに、ラボの方からわめき声が響いてくる。
「何しに来たのよ!」
「おいおい、理由もなんもかんも盗み聞きしといて、その言い草はね〜だろうが」
「うっさい!あんたが政治絡みだけでしか、物事考えてないってのが、よ〜く判ったわよ!」
「しょうがねぇだろうが、そういう商売なんだから」
「道具にされるのも、見世物にされるのも、お断りよ!」
「おい、嬢ちゃん」
「嬢ちゃん言うな!餓鬼で悪かったわねーーー!!」
 ドウン
「お前!俺の執務室、火達磨にしたろーが!」
「はんっ!仕事もしてないのに執務室なんて、ちゃんちゃら可笑しいわ!」
「人死に出てたらど〜すんだよ!」
「あの女殺さなかっただけでもありがたく思え!」
「あいつは死んでもかまわねーけどよ」
「この鬼畜!」

 ラボの喧騒は放って置いて、シルフィスを促して兄の様子を見る。
 アイシュは相変わらず白河夜船の乗客で、いっかな目覚める様子は無い。
 仕方なく二人で客間へ運び、寝台へ横たえると、不意にアイシュがシルフィスの腕にすりついた。
「う〜ん・・……様ぁ・・・」
 夢現で嬉しそうに妻に懐く兄の頭を、弟は容赦無く叩く。
「誰と間違えてんだよ!」
「キール、起きてしまいますよ」
 慌てて諌めるシルフィスに、キールは鼻で笑ってみせた。
「兄貴は昔から、一度寝たら朝まで起きないんだよ」
 神経質で、夜中に何度でも目を覚ましてしまう自分と正反対の、兄のこういう図太さも、実は神経を逆なでする要因でもある。
 第一、自分ですら未だまともに触れていない妻に、べたべたと懐かれるのは業腹だ。
 キールはシルフィスの腕を取って強引に客間を出た。そのまま自分達の寝室へ入り込むと、さすがにシルフィスは慌てだす。
「キール?あの・・・」
 閉じたドアに背中を貼り付けて、思わず立ち止まった妻の左右に腕をついて閉じ込め、一年振りに、二人は正面から見詰め合った。なにしろ、そもそも再会の瞬間から邪魔が入り続けていたのだ。兄、王女と大尉。そしてラボで騒いでいる二人組み。ここには来ていない皇太子だって、邪魔の一人だ。
「・・・シオン様の案を、採用するのも良い手だからな」
「え?……んっ」
 問い返す言葉を遮るように、唇を塞いだ。柔らかな感触を感じた途端、自分がどれだけ限界にきていたのか判ってしまった。
 一年振りの妻の感触。
 手紙と、遠話の声だけで繋げられた切ない時間を超えて、やっと戻ってきた彼女を、半日目の前で見せられながらお預けのままだったのだ。もう、これ以上は我慢なんてしたくない。
 はじめは優しく重ね、啄むように上下を交互にはさんで、中に迎えて欲しいと懇願する。やがておずおずと開かれた口内へ、熱い舌が滑り込んだ。
「ん……っ……ふっ……」
 甘い吐息を洩らしながら、背中を抱きかかえられるのに呼応して、シルフィスの両腕がキールの首に回される。甘さを感じる妻の舌を絡めとり、思う様吸い上げて、シルフィスが答えて自分を吸い付け、流れ込む唾液を飲み込む感触に眩暈すら感じる。
 熱をもちはじめ、少しずつ力の抜けていく身体を包む腕に力をこめて、背後の寝台を強く意識する。
 ここは二人だけの城。例え短くとも、一年前は毎夜お互いの心を確かめ合った愛の巣である。
 しつこいようだが一年振りなのだ。ほとんど生木を裂くような状態で引き離されていたのだから、こうなってくるとなかなか止まれない。角度を変えて唇を重ねながら、彼は妻の暖かさに酔う。お互いの体が熱くなっているのが判る。
 白状すれば、昔酔っ払って院まで連れて帰られた記憶が甦るに従って、キールはそれとなくシルフィスに触れるのを喜んでいた。偶然道で遭って、横を歩く時に触れ合う腕にドキマギし、大怪我の療養時、郷里に付いて来てくれた未分化だった彼女が、肩を貸してくれる度に、こっそりとその温もりを楽しんでは、自分の中に潜む男の煩悩に辟易していた。誰憚る事無く妻に触れられるようになってからは、そんな助平心も自分の一部として認めてやる事にしている。
 これも、シルフィスと約束した、変化の一つなのだろう。自分の内面を認めることによって、少しずつ自信がついているのも確かなのだから。
 今のシルフィスは柔らかい。口付けで融け始めた女の身体は、あとは寝台に持っていって(これくらいの距離なら大丈夫だろう)離れていた空虚な時間を埋めるだけ。
 そう、もう誰に遠慮する必要がある?
 このままゆっくりと二人の時間を過ごすのだ。過ごしたいのだ。
 しかし……
 ドウン
 ラボから爆音が轟いてくる。
 キールはゆっくりと唇を離した。混じり合って少しだけ粘度を増した唾液が、束の間糸となってお互いを繋ぎ、ぷつんと切れる。口付けで紅くなったシルフィスの唇が、困ったような笑みを浮かべた。
「気になりますね……やっぱり」
 何を言っているのか判らないが、メイのわめき声が微かに聞こえる。キールは重いため息が漏れるのを止められない。
「・・・ああ」
 結局の所、周りのことなどお構いなしにいちゃつけるほど、二人は大胆にはなれないのだ。
 名残惜しさとバツの悪さを消すために、もう一度だけ強く抱擁しあい、寝室を後にする。一応もう一つの客間も整え、夕食後からそのままになっていた片付けなどを分担して終えた頃には、そろそろ東の空が薄っすらと明るくなってきそうな時刻である。
 その間、ラボの怒鳴りあいと、時折混じる爆音は、だんだん回数が減ってきて、今は静まり返っていた。

「さてと…そろそろ追い出すか」
 何杯目か数えるもの嫌になった茶を置き、キールが立ち上がる。
 ラボへ続く渡り廊下を進むと、奥のドアの向こうから、微かにしゃくりあげるような嗚咽が聞こえてきた。
「シオンが悪いんだからね・・・」
「そうだな」
 すっかり枯れた声で呟かれる非難へ、魔導士の囁きが返される。
「大っ嫌いなんだからね・・」
「俺は好きだぜ、お前さんが」
 ドアを開けようとして、少し躊躇する。自分達と違って、この二人が居るところにうっかり入り込んで、目も当てられない現場に遭遇するのは御免だった。
 もう少しだけ聞き耳を立てることにする。
「うっさい。じゃあ何であの部屋に、あの女入れたのよ」
「あの部屋?」
「あんたの仮眠室」
「ああ、あそこか。なんか知らんが、あそこに、入れたかどうかで、ステータスとやらになるらしいな」
「結界張って、もう他の女絶対入れないって言ったの誰よ!」
 再び荒くなる声に、シオンの暢気な返事が返る。
「ンなこと言っても、今はただの資料室だからな」
「誤魔化すな!」
「嘘じゃねぇって」
「じゃああんた何処で寝てるのさ」
「自分の家」
 嘘つけと怒鳴る声に、睦言ではないと判断したキールが、ラボのドアを開く。
「本当だ、メイ」
 魔方陣の上で、ぺたんと座って魔導士とにらみ合っていた娘が振り返った。
「キール」
 ラボの主と親友の姿を認めて、泣き顔を隠すように後ろを向く。
「何がホントなのよ」
 それでも向こうっ気だけは消えないようだ。
 すばやくラボ全体に視線を走らせ、損害の有無を確かめると、妻と共に室内へ入る。
「シオン様は家を買ったんだ。お陰で引越しを手伝わされて、しばらく筋肉痛で動けなかったんだぞ」
 小さな声で『情けない奴』と言う失礼な突っ込みは無視して、元保護下の娘に歩み寄る。
「ここから通り二つ先の、お前が前に住んでみたい、と言った家だそうだ」
 メイが弾かれたように顔を上げる。どうやら魔導士を見詰めているらしい。
「家って……あの、三角屋根で壁が白くて、おっきいベランダと庭が花だらけの。スイスのお家みたいな奴?」
 見詰められた男は、こいつにもこんな顔ができるのか?と思うほど、はにかんだ微笑を浮かべた。
「ああ、そのスイスのお家って奴だ。こいつらがここに引っ越した時、帰りに一緒に見た家だ。丁度売りに出されててな」
 キールの記憶にある家は、確かに瀟洒な造りではあるが、名門貴族の出で、筆頭魔導士の彼が住むにしては、えらくこじんまりした物だった。部屋数もここと大差ない。そう、実に一般庶民の家なのだ。重労働の疲れと共に、それをあげつらってやろうかと思ったが、家を眺める魔導士の表情に、嫌味を引っ込めた。
 その時の表情で、魔導士は娘を見詰めていた。
「あそこなら、二人だけで住める。好きにいじっていいぜ。花は俺が育てるし、召使なんかいらねぇんだろう?お前さんの荷物も、もう入れてあるしな」
 茶色の鞠が弾けるように、メイがシオンに跳びついた。多少角度と目測を誤り、頭突きを胴体にお見舞いした形になったのは、まあ、ご愛嬌と言えるだろう。魔導士は、少しの間悶絶していたようだが。
「シオン!シオン!シオ・・ヒック・・・」
 しがみ付いて激しく泣き出した恋人の背を、苦しい息を堪えながら、魔導士が優しくさする。
「悪かったな…不安にさせて」
「アホ、ボケナス…っ…トーヘンボクのクソオヤジ、鬼畜野郎」
 嗚咽を混じらせながら、ひとしきり罵倒が続き、やがて唐突に途切れた。
「…・・・寝たみてぇだ…」
 呆れたように呟いて、シオンはメイを横抱きに抱えなおすと、どっこいしょ、などという年より臭い掛け声を業と発して立ち上がる。
「邪魔したな」
 家主夫婦に一声かけて、ラボの玄関へと向う。その背中に、キールの冷ややかな声が浴びせられた。
「ドアの修理代は、後日請求させてもらいますから」
 うぐ、などど呻いて、魔導士が振り返る。
「ちょこっと焦げただけじゃね〜かよ」
「どこがちょこっとですか?」
 渡り廊下への扉は、普通に動くのが不思議なほど、見事に焼け焦げていた。
「出入りばなだったんで、結界が遅れちまってな〜」
「メイの体力限界まで疲れさせる為に、業と煽ったんでしょう?」
 察しの良過ぎる後輩に、シオンはやり難そうな渋面を向けた。
「だいぶストレス溜まってたみて〜だからな」
 誰よりも聡く、抜け目が無いと自他共に認められている筆頭魔導士だが、愛情表現は、どうしてこう不器用なのだろう。
 疲労とストレスで混乱している恋人に、爆発させ、お互いの腹の中を喚き合って吐き出させる以外、癒す方法を知らないなんて、今までのお相手達が聞いたら、別人だろうと言うかもしれない。何度かこういう現場の舞台提供をさせられた自分でも、やはり奇妙なものを見ている気がするほどだ。それだけ、この異世界から来た娘は、特別な存在なのかもしれない。
「最後のトドメは貴方ですよ。発散させる為の痴話喧嘩は、今度からご自宅でしてください。迷惑です」
 半ば投げやりな言い方のキールに、恋人を抱えたままで器用に肩を竦めた魔導士は、少しだけ困ったように苦笑した。
「ああ、悪かったな。シルフィス、お茶ご馳走さん」
 どうせ次もこのラボで、同じような事が起こるに違いない。なにしろ、当の娘が、何故かここが最後の砦とばかりに飛び込んでくるのだから。
 ドアを開けて出て行く魔導士の背中を見送りながら、キールは妻の肩を引き寄せ、どうにか終わった、大騒ぎの一夜に、安堵と疲労の入り混じったため息をついた。


 午後に差し掛かった日差しが、高窓から差し込んでくる。
 昨夜の顛末を思い出しながら、キールはもう一口茶を啜る。
 シルフィスの淹れるお茶は、筆頭魔導士が誉めただけあって、実に香も旨味も良く出ていた。微かに混じるのは、ブレンドされたカモミールか?
「美味いな・・・」
 味に煩い夫に誉められて、シルフィスは嬉しげに微笑んだ。
「キールにそう言ってもらえると、自信がつきます」
 ストレートな持ち上げられ方に、はにかむような苦笑が返される。
「何言ってんだよ」
 二人が何より大切にしている、穏やかな時間。
 せっかくシルフィスが傍にいるのだ、自分のどうでもいい蟠りなんかで、この笑顔を曇らせたくは無い。キールは些細な事で拗ねていた自分を少しだけ反省した。
 二人の台風が去った後、どうにか静かな時間を取り戻した夫婦は、白々空(しらじらあ)けの窓に苦笑しつつ寝室のドアを潜り、やっと二人だけの時間に突入した。
 心置きなくゆっくりと唇を重ね、互いの着衣を解くのももどかしく、寝台に潜って細やかな愛撫を繰り返す。夫も妻も荒々しい営みを嫌い、じっくりと時間をかけるのが常なのだが、夫の愛撫を受けながら、夢見心地になった妻は、そのまま本当の夢の世界へ旅立ってしまった。一人取り残されたキールは、どうにも出来ないまま、半ばヤケクソでシルフィスを抱きかかえて眠りについたのである。
 昼近くにようやく起きだした夫妻には、思わぬ宿泊に恐縮しまくった兄の置き手紙と、心づくしの朝食が待っていたのだが、ぎこちなく食事を終えると、夫は書斎に篭ってしまった。
 中途半端なバツの悪さで、どういう顔をしていいのやら、それとも再戦を迫るべきなのか、戸惑ってしまった結果である、しかし間の悪い事に、壁に設えた棚に置いてあった、実験途中の魔法薬が、昨夜の台風の余波で変質しているのに気がついてしまった。
 敏感な魔法薬は、筆頭魔導士の強力な結界に含まれる魔力と、其処にぶつけられる、メイの魔法弾の波動に耐えられなかったのだろう。
 調べてみれば、他にも数点、変質したものが見つかった。かくして、この上も無く不機嫌な魔導士の出来上がりである。
 だが、もうそんな事はどうでもいい。
 穏やかに微笑み合い、ゆっくりと茶の香を楽しんだ。

「やっと静かになったな」
「はい。本当に、ガゼルが言っていた通りです」
 しみじみと頷きながら、シルフィスが妙な事を言い出す。
「ガゼル?」
 妻の同僚の名に、キールは訝しげに首を傾げた。シルフィスは、さも可笑しいといった風情で、くすくすと笑いを噛殺す。
「ガゼルがね、『どうせ今夜は様子を見に来る奴が連続するはずだから、ゆっくりなんてできやしない』って言って、姿くらませちゃったんです。多分、昨日から、神殿に隠れてますよ」
 なるほど、近しい者達から帰還への祝福をうけまくり、接待に時間を獲られるよりも、彼は恋人との逢瀬を選んだらしい。
「お兄さん、今頃、ガゼルの居場所がわからなくて、慌ててるでしょうね」
 彼が神殿の女司祭と恋仲なのは、今のところセリアン夫妻しか知らない秘密である。
 研修後一ヶ月は休暇となっているから、多分今頃は、思いっきり甘い年上の恋人の下で、子猫のように喉を鳴らしているのだろう。
 その様を思い浮かべ、ふとまた、心の奥にささくれるような焦燥を感じる。
「羨ましい話だな……」
 思わず本音が漏れて、シルフィスを微笑ませた。
「しょうがないですよ。明日からは静かになります」
 飲み終わったカップを盆に戻し、妻はそっと立ち上がった。
「そろそろ、衣装の用意をはじめますね」
 そういえば、今夜は厄介事が残っていた。キールは再び、不機嫌に眉を寄せた。
 要領の良いガゼルに比べて、自分達はなんと不器用な事か。
 キールは立ち上がった妻をまじまじと見詰めた。休暇と言う事で、若草色のワンピースに、藤色のエプロンが映えている。スカート丈は勿論、キール好みの足首まで隠れる物で、楚々とした雰囲気を存分に醸し出している。
 ただ、どうにも目が行ってしまうのは、少しだけ大きめなカットがされている襟元で、ちらちら見える鎖骨の陰が、キールを落ち着かなくさせる。
 そういえば、と思い出す。
 買ってあるドレスは、彼女の瞳に合わせた緑色のレース仕立てのイブニングで、かなり胸元が開いてなかったか?
 嬉しそうに着て見せてくれた時は、その可憐な姿が自分だけのものなのを心から楽しんだが、今夜それを大勢に見せる……・
 キールのカップを受け取り、盆を持とうとする白い手首を、無意識に伸ばされた夫の手が捉えた。
「?」
 きょとんと見返す仕草が、小鳥が首を傾げる様で、キールはそのまま腕を引いた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴と共に、妻が膝の上に落ちてくる。
「キール?」
 再び腕の中に納まった温もりに、自然と笑みがこみ上げる。訊ねるように見上げるシルフィスの唇をそっと塞いでから、耳元で笑いながら囁いた。
「昨日は不戦敗だったからな……」
「え?」
 そのまま椅子に座った膝に乗せられて、首筋を唇でなぞられ、やっと夫の意図に気がついた妻が、慌てて立ち上がろうとするのを、腰に回された腕が有無を言わせず押さえつける。
「じっとしてろ」
「だって……っ・・用意しないと……ぁっ……」
「うるさい」
 そのドレスを着る前に、自分のものだと確認したい、なんてのは、男の独占欲。判ってはいるけれど、もう我慢なんてするものか。
 気になっていた襟元に口付けを落とし、手の方は丁寧にエプロンを外し、胸元のボタンを外すべく、長い指が繊細に動いていく。
 観念して身を委ねたシルフィスから、甘い旋律が引き出され始めた頃、ラボのドアを誰かがノックした。
「キール……はぅん……誰か……来・・ました」
 びくんと撥ねる細い腰を、やはり構わず押さえつけて、ラボの主人は口の中で呪文を紡ぐ。
 自分にだけ判る僅かな空間の変化とともに、ドアの音が聞こえなくなる。
「今日は臨時休業だ……」
 結界の中で、甘い吐息が重なり合い、二人の時間がゆっくりと流れ出す。
 どうやらやっと、『一番食べたいもの』にありつけた様である。
 
 蛇足として、その夜の晩餐会で、筆頭魔導士は無事婚約者を公認のものとして、夫にエスコートされた美貌の女騎士は、降るようなダンスの申し込みを、長旅の疲労を理由に、かたっぱしから断りつづけた事を、付け足しておこう。


End

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